毒親と縁を切るまで⑨

【当時の話】

母は私が小学校一年の時から、ランドセルを開けては手紙やメモ、交換日記などを確認して内容について私に言ってきていました。これ、翌日の授業の準備の手伝いでランドセル開けたのかな?と思ったのですが、教科書とかはそのままいじってなかったんですよね。私入学当初は弄られキャラでよく泣いていたので、学校の先生から親に連絡がいっていたのかもしれません。それで学校での様子を知りたくてランドセルを...という事かな?それなら、学校どう?とか聞けばいいだけの話ですね。この頃の母は仕事で遅かったので、学校の話を聞いたり言ったりする習慣はありませんでした。

あと、徹底的に私の友達付き合いを否定してきていましたね。おそらく自分が人付き合いが苦手なのと、子供を通してその保護者と関わる機会がないようにしたかったんだと思います。

 

↑のやけどや怪我は小学校の時の一番ひどい外傷です。やけどは自分で「病院行きたい」と言って一人で行き、殴られた怪我は病院にいかずそのままでした。(メガネがまっすぐかけられないほどの頬の腫れでした)

多分親は「仕事が休めないから」学校に行かせたんだと思いますが、よく聞く虐待家庭だと学校に行かせない事が多いようですね。(怪我などが重い場合はなおさら)

 

第二次性徴はもう「毒親あるある」ですよね。少し前に、YouTube岡田斗司夫さんの動画で「毒母は、自分のテリトリーに他に女がいると敵意をむき出しにする」という内容のものがあったのですが、それを観て、そうだったのか!とすごく納得しました。

母との関係にズレを感じ始めたのは、まさしく↑のスポーツブラの話をした後からでした。恐らくここから母のなかで私は「子供」から「女」にカテゴライズされたのでしょうね。

 

親が宗教に入っていた、と気づいたのは大人になってからです。(独り暮らしの時に同じ宗教の人が自宅に勧誘しにきた)ネットで調べてみると、母が入っていたのは結構マイナーな宗教のようですが、毎月ご寄付をしていたようです。私は小学一年~六年まで月に数回子供訓練に行かされていました。(毎日行けと言われていたが、無理だった。母自身も毎日は行けていなかったようです)子供訓練もお祈りも朝が早くて...。

この後もう一つ違う宗教にも入っていましたが、そのうちやめてこれ一本になったようです。この団体には絶縁する時にもまだ在籍していました。(私の名前住所と夫の名前も登録しているようでなので...今後が心配です)

 

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毒親と縁を切るまで⑧

【当時の話】

これ以前に、職場の年上の方(お子さんのいる女性)に母の話をして「お母さんだってつらいのよ~」「どこのお家も多少はあることだよ」と言われたことがありました。(包丁の一件も「あ、おおげさおおげさ!お母さん本気じゃない!」と言われました)

その時私は「いくら包丁を突きつけられても母の行動は共感されるもので、私は母に反抗的な子供ってだけでつらい気持ちに共感はされないのか?」と思い、それ以降は母の話を他人にするのはやめました。

100歩譲って母もつらいということは理解するとして、自身がつらいときは子供を恫喝しても良いって?それはただのサンドバッグでは?

子供が泣けば「泣くな!」、楽しくはしゃいでいると「うるさい、はしゃぐな!」、感情を表に出した時にそれを否定されるような事ばかり言われれば、そりゃ感情や気持ちを表に出すことに罪悪感を覚えるようになりますわ。

漫画の頃は「あれ?私母からあんなことされてすごく傷ついたのに、傷ついたって思っていいの?」「結局何を話しても私が悪いで終わるだけじゃないの?」というもやもやだったと思います。だから人には言わないで、自分でなんとかしてみようと思い始めた時期です。

 

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毒親と縁を切るまで⑦

 

【当時の話】

この頃は自分の気持ちとか主張を受け止めてもらえないと、秒速で絶望していました。絶望してすぐに諦めるのですが、親に自分の気持ちを受け止めてもらえなかった時よりも、夫や友人に受け止めてもらえなかった時の方がダメージが大きく、時としてそれが怒りに変わることも多かったです。夫にはよくぶちギレていたのですが、大分後に田房永子さんの本に出会って、「ああ、そういうことだったのか」と安堵しました。

最近は本当にキレなくなったんですよ!!当時は本当に余裕がなかったんです...些細な事で瞬間的にパーンとキレて、「ああ、母親そっくりだ...!」とめちゃくちゃ自己嫌悪に陥ってあっぷあっぷの最中にまた何かしらでキレて、の繰り返しに苦しんでいました。

 

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毒親と縁を切るまで⑥

【当時の話】
この出来事について思うのは「母はどうしたかったのか?」なんですが(十中八九八つ当たりだとは思うんですが)、母はただ怒りにまかせて後先何も考えず喋ってるだけで、「包丁は持ち出したけど、ただの冗談でしょ~」ぐらいの軽い感じかなと思ってます。子供からしたら冗談じゃ済まされないですけど!

こういうのは大抵原因は別のところにあって、イライラしている時に子供がトリガーを引いてしまっただけだったりしますよね。(あとは年齢的に更年期だったかも)

実際母はこの行動を覚えておらず、私が詳細を話して「覚えてないの?」と言うと

「だからなんだ」

「何か腹がたってたんだろう、知らんけど」

「古い話なんていちいち覚えてないし、そもそもお前が悪いことをしたんだろう」

という展開になりました。(不利な展開になると逆ギレするのはテンプレ)

親は覚えておけないものらしいですが、子供はこういうのしっかり覚えてるので、自分も親として心に留めておきたいと思います。

 

 

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毒親と縁を切るまで⑤

【当時の話】

私が小学校の三年~四年あたりが、母は一番不安定だったような気がします(↑の頃です)。学校から帰ってくるとたばこを吸っていたり(母は喫煙者ではない)、電子レンジに箱ティッシュが入っていたり(暖めていたっぽい)、今回のように包丁を持ち出していきなりぶちギレてくることも度々ありました。こういう展開になる度に、私は母にどう対応すればいいか頭のなかでぐるぐる考えながら、言葉を発していました。恐らくこの頃から「母の機嫌を損ねないような発言」をするようになっていたと思います。それでもキレる時は避けられないのですが...。

大人になってから、どうやらこの頃は父と母がゴタゴタしていたという事を兄から聞きました。自暴自棄になっていたのだろうな、とは思います。ただその捌け口は一番弱いものに向かうものなのだなあとも改めて思いました。

 

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毒親と縁を切るまで④

【当時の話】

買い物に行ったときの状況は思い出せなかったのですが、ひき肉と何かを間違えたこと、それと怒りに満ちた顔で下唇を噛みしめながら、ひき肉のパックを床に叩きつけて何度も両足で踏みつけている母の姿ははっきり思い出しました。

兄はあんまりこういう時動揺しなかった気がします。今思えばそれはそれで良くない状態だったんじゃないかなあ、年も結構上だったので色々わかっていたのかもしれません。

 

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毒親と縁を切るまで③

【当時の話】

何で家に竹刀があったのかわからないけど、当時の母は私が言うことを聞かないとよく竹刀を持ち出して脅してきました。これが怖くて...この耳元で風を切る音がなんとも言えず恐くて震え上がっていました。

まあ、母からしたら「仕事に遅れたくないから」って事だと思うんですけどね。でも他にやり方あったでしょうに。

後にこの件に関して母に「何で竹刀まで持ち出してきたの?」と聞いたことがあります。母の返答は「あの時代はあれが普通だった」というものでした。

...え、えぇ~!!?

 

 

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